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昨年9月に鶴岡の致道博物館で酒井家17代当主酒井忠明氏が講演の予定であったのだが、忠明氏の突然の体調不良にて無期延期となっていた。しかし、忠明氏は薬効の甲斐もなく、今年の2月に残念ながら亡くなられてしまった。出席の希望を出していたので、7月に庄内竿の好きな加茂水族館館長村上龍男氏(昭和14年〜)、庄内竿の製作者丸山松治氏(大正10年〜現在は高齢の為作っていない)の二名の講演があるとの知らせが届いた。
当初魚には興味があって加茂の水族館に勤務し、昭和42年より館長をずっと今日までやっている訳であるが、その当初は釣にはまったくの興味はなかったと云う。魚は網で捕るもので、ひとつずつ釣竿で捕ると云った非効率的な釣と云う遊びに対して疑問を持っていたとおっしゃる。
加茂水族館の裏手は昔から釣りの名磯場である。ある日、裏手の磯に上がり釣っていた釣師の魚との勝負の様を見てから一片に庄内竿と黒鯛の虜になった。荒波に揉まれた黒鯛が、上手の釣師から、庄内竿で軽くあしらわれ右や左に必死の格闘の甲斐もなく釣れて来た。その黒鯛の魚体を見た時に不思議な感動が得られたという。
昭和41年にこれはと云う師匠を探し、みっちり3年間ついて学んだ。師匠から釣り場の沈み石の在り処、釣岩の安全性(濡れた岩では絶対に釣はしない、荒れた時の岩場歩き方とその危険性)、釣のマナー、天候、潮の動きなどの色々手ほどきをしてもらった。その後も師匠としてお付き合いをさせて貰っているという。
ことにその師匠は、マナーにはうるさくて「人に厳しく、自分には更に厳しい」師匠であった。先に自分の釣り場に入っていたら、絶対にその釣り場には入らないし、まして撒き餌をしている時には絶対に近づかない。極端な話、知り合いの釣師がここは釣れるからと云って呼ばれても一緒に釣をすることもなかった。呼ばれても他人が寄せた魚を釣るということが、釣師としてのプライドが許さない人物でもあった。だから他人が、釣り上げた魚を見て釣り座の近くに来ようものなら怒鳴りつけるのは当たり前のことであった。体格も良いその師匠から怒鳴りつけられ様ものなら大抵の釣り人はすごすごと引き下がらずには居られなかったと云う。
人がやっと寄せて釣れる様にした場所を、後からのこのことやって来て良型の魚を平気で釣り上げてしまう釣り人が、最近は増えてきた。海は誰のものではない、そんな人は「何処で釣ろうが自分の勝手」と云う理屈を付けたがる。所謂、自己虫と云う虫である。人の努力を踏みにじり、平気でアサって当たり前のインスタント釣人(釣師とは云えない)が結構増えてきているのは残念なことである。
大正時代に書かれた土屋鴎涯の「時の運」にも、そんな釣り人を「づくなしども」と書き嘆いている。
村上館長も、加茂の沖堤でそんな経験が多々あると云う。そんな嫌な事があっても釣りは魔力のようなもので辞められないらしい。大型が釣れれば、元から満月のようにしなり釣り上げた後は、何事もなかったように元に戻るという庄内竿の魅力の前にはそれも許せるような境地になって来たらしい。若い頃は釣り場の事での喧嘩もしたと云うが、60余歳の今、枯れた境地と云うかそんなものを感ずる好人物と見た。
シノコダイから二歳、黄鯛、黒鯛のすべてをたった一度の釣行ですべて釣り上げるのは、至難の業で一生に一度有るか無いかの事をやった事があるといつも自慢していたが、そんなことも長い釣人生の中で自分も経験した事があると館長は云った。自分も結構長い釣歴だけはあるものの、そんな考え方も有る等とは思っても見た事がなかった。
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